Words Of Love

王子はお姫様のキスで死ぬ

★さよなら!〜青山劇場★PLAY ZONE 30YEARS★1232公演 1/6昼(初日)

あの日からもう4か月も経ってしまった。それでも鮮明に残る記憶がある。
今さらながら、プレゾンのことを記しておこうと思う。レポではなく、主観が多く入った自己満の現場記録になっているので、その点ご了承願いたい。




時間はプレゾン初日公演の前日、1月5日にさかのぼる。

私は翌日の幸せを胸に、朝からせっせと働いていた。1月6日は、プレゾン初日からはしごでジャニワの夜公演に入ることになっていた。仕事始めの憂鬱さも、翌日のことを考えると頑張れた。
プレゾンで翼くんの元気な姿を見たい。優馬くんがグループ(カンパニー)の一員として輝いている姿を見たい。そしてもう一つ、阿部顕嵐くんが踊っている姿を生で観たい。そんな思いで仕事にいそしんだ。
19時ごろ、仕事を終えてケータイを確認すると、一通のメールが届いていた。発信者は滝翼のメール事務局。メールを読んで息をのんだ。


仕事先から自宅までの帰路はリアルに泣きながら帰った。私が顕嵐くんに、仕事終わりに爆弾を投下されたのは、その日が初めてではなかったのだが、爆弾によって悲しい気持ちになったのは初めてであった。
少クラでキラキラを振りまきながら歌い踊り、ゲームのコーナーでは天然愛されキャラを存分に発揮し、そうかと思えばドラマでは別の一面を見せてくれる、そんな顕嵐くんをこの目で見るのをどれほどに楽しみにしていただろうか。


Twitterのツイートを振り返ると、2015年1月5日19時6分に、私は

あらんちゃああああああああああああああんんんんんんんんんんんん

と悲痛の叫びを残している。
次いで19時7分には

わたしはいつになったらあらんちゃんに会えるの??

と悲劇のヒロインになったかのような心境がうかがえるツイートが残されている。
それほどまで、顕嵐くんに会えることを楽しみにし、また、顕嵐くんに会うことは、今回の遠征の目的意義の多くを占めていた。顕嵐くんはとても遠い、そして尊い存在であった。




翌日、複雑な思いの中、東京に到着した。プレゾンの会場へ向かう前に、NHKホールの横の会場で行われていた、紅白出場歌手のサイン展を観に行った。勝利くんは色紙に『勝利 Sexy Zone』とだけ書いており、その3(2)単語だけで勝利くんだとわかる、勝利くんのアイデンティティに萌えた←
あとは渋谷さんがすごくよそ行きなサイン(よく見る丸字の『すばる』ではない筆記体のもの)を書いていたのにもきゅんとなった。

そうしているうちに時間は刻一刻と迫っていた。会場に向かい、グッズを購入し青山劇場へ入った。長年滝翼を応援してきていたが、プレゾンの観劇は初めてであった。歴史を感じる建物にふかふかの客席。すぐに気に入った。なんでもっと早くプレゾンへの機会を持たなかったのだろう。双眼鏡とパンフレットと顕嵐くんのフォトセを膝に乗せ、ハートを作って笑顔で写っている、フォトセの一番上の顕嵐くんをじっと見つめていた。

開演前、拍手と歓声が会場に響いた。何事だと思って見回すと、振付演出のトラヴィス、ステイシー、そしてタッキーが客席に現れたのである。思わぬところで滝翼愛を感じることができた。




照明が落ち、ステージが始まった。
堂々とした佇まいで翼くんがゴンドラから登場する。

*1


翼くんが歌ってる、踊ってる、元気そう!!

普段なら当たり前の姿に私は涙が止まらなかった。病気を乗り越え、再びファンの前に姿を見せてくれた翼くんに、客席は割れんばかりの拍手を送った。病み上がりとは思えない圧巻のパフォーマンスに、私は魅せられた。GOEMONぶりのフラメンコも観れ、全く衰えを感じないパフォーマンスに脱帽した。


プレゾン初心者の私は、どの曲でどの出演者が出て…などといったことが分からず、ただただ演出を楽しんだのだが、群舞好きとしてはとても満足いく舞台であった。先にも述べたが、なぜ今までプレゾンを観る機会を持たなかったのか、とても悔やんだ。
出演者については、ふぉ~ゆ~、They武道、MADは勉強不足で、顔と名前が一致しない状態で観劇してしまうことになった。しかし、パフォーマンスの圧と客席への熱を感じ、Jr.も侮れないなという感想を抱いた。
屋良くんはダンスが桁違いで、無重力の中で踊っているかのような身軽な動きに、さすがと拍手を送った。帰宅後、舞闘冠のPVが観たくなり、Now and Foreverをリピする時期がしばらく続いたことを追記しておく。
優馬くんは、硝子の少年を過去(?)の優馬くんの映像と掛け合いながら、パフォーマンスをしていたのだが、シンメを持たない、常にセンターを張る人は、センターは自分であり、シンメも自分なんだなと、その孤高な姿に泣きそうになりながら見入った*2。私は涙腺が弱い。
そしてTravis Japanだが、昨年滝CHANnel運動会のときにも観ていたので、パフォーマンスをとても楽しみにしていた。兄組の仲田拡輝くんは弾けたダンスが魅力的で、また他のメンバーと絡みに行く姿が印象的だった。森田美勇人くん、川島如恵留くんとの絡みが立ち位置上多かったように思う。如恵留くんは常にニコニコしていて、如恵留くんの自然な笑顔を初めて観て心惹かれた。そして美勇人くんは少クラで観るイメージのままという感じで、あの得意の回し蹴り(特徴のある、あの、足が長い人じゃないと不恰好に見える、上半身を曲げて前かがみっぽく回す、美勇人くんの回し蹴り)も拝め、満足であった。七五三掛龍也くんは、これもどの曲であったか曖昧だが、Vネックの衣装を着て出てきた曲があり、首元から溢れ出る色気が止まらなかったので、勝手に『ベストVネックセクシー賞』を受賞いただくことにした。小柄なことも相まって、全私が撃ち抜かれた瞬間であった。あと、カーテンコールでMADの紹介がされる中、間違えて意気揚々と頭を下げかけたのもかわいかった。
弟組は目が2つじゃ足りず、あまりしっかり観ることができなかったのだが、宮近海斗くんが、それまでの私のイメージであった『なにかな~?なにかな~?さかな~』*3の子から大きな脱却を果たし、ダンスでの感情表現が上手な子へと変貌を遂げたことをここに記しておく。


「ありがとう、青山劇場」というコメント映像が流れ、少年隊やTOKIO、錦戸くん、内くんなど歴代の出演者が感謝を述べ、最後に全員で「さよなら、青山劇場」と締める演出は、また私の涙を誘った。そして全編が終わった。

カーテンコールでは、ファンを「心配させて申し訳なかった」と療養期について翼くんが挨拶をした。翼くんのパフォーマンスから、心配などとっくに消えていた。「カンパニーが一丸となれたから、今日が迎えられたのだ」と説明があり、このステージに立てなかった顕嵐くんの存在も話される。そしてその翼くんの言葉と共に、松葉杖をついた痛々しい姿の顕嵐くんがステージへと姿を現した。私と阿部顕嵐くんの初対面の瞬間であった。
おもむろに顕嵐くんが一言目を発する。「ご…ご来場の皆様…」声はガラガラで、今にも泣き出しそうな顔にハラハラしたのも束の間、翼くんより「固い固い!お前は固いって俺もよく東山さんに言われたけどさ!」とフォローが入る。「ご来場の皆様、スタッフのみなさん、ご迷惑とご心配をおかけしてすみませんでした。早くみなさんの前でパフォーマンスができるよう、治療に専念します。見守っていてください。」たしかこのような文言だったように思う。それは17歳の少年が発した言葉だと考えると、重みがありとてもつらかった。顕嵐くんのパフォーマンスが観られないことを私は残念に思っていたが、それはきっと、舞台に立てない本人が一番感じていたことだったはずだ。残念だという思い、そして悔しいという思いが言葉から滲み出ていた。そして、その気持ちを一番理解しているのが座長なのだろうなということが、翼くんのまなざしを観て感じられた。翼くんのまなざしや、話し終えた後に顕嵐くんの頭をぽんぽんと触り、松葉杖で不自由な分をサポートする如恵留くんを観て、『カンパニーが一丸となって』という言葉が真実であることがわかった。
そんなカンパニーに称賛を贈る、トラヴィスとステイシー。通訳の方も出てこられ、幕が開けたことの喜びと、パフォーマンスへの賛、顕嵐くんへのねぎらい、観客への感謝などが通訳さんを通じて話された。続いてタッキー。「◎※▽×~」トラヴィスたちの真似をして謎の言葉を発し、それをふぉ~ゆ~の4人がアドリブで(自分たちの都合のいいように)通訳する。

タッキー「あけ?あけめして…?」
ふぉ~ゆ~「あけましておめでとう」
タッキー「Oh!あけましておめでとう!!」

ここが一番面白かった。
茶番もそこそこに、タッキーからも、ファンに向けて、いろいろと心配をかけたことへの謝と、そして翼くんが復帰できた喜びを伝えてくれた。滝翼本当にいいコンビだ。2人の笑顔が見れて、とても幸せな気持ちになった。



こうして私の最初で最後のプレゾンは終わった。顕嵐くんの踊りを観ることは叶わなかったが、姿を見ることができた。そして、カンパニーの素晴らしい結束力、座長には素敵な相方がいることが再確認できた。もう二度と足を踏み入れることのできない青山劇場から出た私は、記念に顕嵐くんとのツーショットプリクラを撮り、次の現場、帝国劇場へと向かった。
帝国劇場での出来事と、『早くみなさんの前でパフォーマンスができるよう』にという約束を守ってくれた、彼の話はまた次の機会とする。

*1:公演後、私がいかに翼くんの登場シーンに感動したかを、すばる担の相方に説明した時の画像

*2:そしてそれを勝利くんに重ね合わせて観ていた

*3:by 少クラ

アーノルド・ローベルの『おてがみ』を三馬鹿で超訳してみた。

おてがみ

アーノルド=ローベル 作
みき たく 訳
めいりん 超訳




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きみくんは げんかんの まえに
すわって いました。 
ヒナちゃんが やって きて いいました。
「どうしたん、きみたかくん。
えらい かなしそうやん。」




f:id:mei5ring:20150511235040j:plain

「うん、そうやねん。」
きみくんが いいました。
「いま 一日のうちの
かなしい ときやねん。
ようするに てがみを まつ
じかん やねん。
そうなると いつも ぼく めっちゃ
ふしあわせな きもちに なんねん。」
「それは どういう わけや?」
ヒナちゃんが たずねました。
「だって、ぼく
てがみ もらったこと ないんやもん。」
きみくんが いいました。




f:id:mei5ring:20150511235041j:plain

「いちども なん?」
ヒナちゃんが たずねました。
「ああ。いちども。」
きみくんが いいました。 
「だれも ぼくに てがみなんか
くれた ことが ないねん。
まいにち ぼくの ゆうびんうけは
からっぽやで。
てがみを まって いる ときが
かなしいのは そうやからやで。」
ふたりとも かなしい きぶんで
げんかんの まえに
こしを おろして いました。




f:id:mei5ring:20150511235042j:plain

すると、ヒナちゃんが いいました。
「ぼく もう いえへ かえらんとあかんわ、
きみくん。せな あかんことが あんねん。」
ヒナちゃんは 大いそぎで
いえへ かえりました。
えんぴつと かみを みつけました。
かみに なにか かきました。




f:id:mei5ring:20150511235043j:plain

かみを ふうとうに いれました。
ふうとうに こう かきました。
「きみたかくんへ」
ヒナちゃんは いえから とびだしました。
しりあいの しぶやんに あいました。
「しぶやん。」
ヒナちゃんが いいました。
「おねがいやねんけど、この てがみを
きみくんの いえへ もって いって、
ゆうびんうけに いれてきて くれへん。」
「まかせてくれよ。」
しぶやんが いいました。
「すぐやるわ、マッハ、マッハ。」




f:id:mei5ring:20150511235044j:plain

それから ヒナちゃんは きみくんの
いえへ もどりました。
きみくんは ベッドで おひるねを
して いました。
「きみくん。」
ヒナちゃんが いいました。
「きみ、おきてさ、おてがみが くんのを
もう ちょっと まって みたら
ええと おもうで。」
「いやや。」
きみくんが いいました。
「ぼく、もう まって んの あきたわ。」




f:id:mei5ring:20150511235045j:plain

ヒナちゃんは まどから ゆうびんうけを
見ました。
しぶやんは まだ やって きません。
「きみくん。」
ヒナちゃんが いいました。
「ひょっとしたら だれかが きみに
てがみを くれるかもしれへんやん。」 
「そんな こと あるもんか。」
きみくんは いいました。
「ぼくに てがみを くれる
人なんて いるとはおもえへんもん。」




f:id:mei5ring:20150511235046j:plain

ヒナちゃんは まどから のぞきました。
しぶやんは まだ やってきません。
「でもな、きみくん。」
ヒナちゃんが いいました。
「きょうは だれかが きみに おてがみ
くれるかもしれへんで。」 
「アホみたいなこと いうなや。」
きみくんが いいました。
「いままで だれも
てがみ くれへんかったんやで。
きょうだって おんなじや。」




f:id:mei5ring:20150511235047j:plain

ヒナちゃんは まどから のぞきました。
しぶやんは まだ やって きません。
「ヒナちゃん、なんで きみ ずっと
まどの そとを 見てるん。」
きみくんが たずねました。
「だって、いま ぼく てがみを
まって るんやもん。」
ヒナちゃんが いいました。
「でも けーへんで。」
きみくんが いいました。




f:id:mei5ring:20150511235048j:plain

「きっと くるで。」
ヒナちゃんが いいました。
「だって、ぼくが きみに
てがみ だしたんやもん。」
「ヒナが?」
きみくんが いいました。
「てがみに なんて かいたん?」
ヒナちゃんが いいました。
「ぼくは こう かいてん。『しんあいなる、
きみたかくん。ぼくは きみが
ぼくの しんゆうで ある ことを
うれしく おもっています。
きみの しんゆう、ヒナ』」




f:id:mei5ring:20150511235049j:plain

「ああ、」
きみくんが いいました。
「めっちゃ ええ てがみや。」
それから ふたりは げんかんに でて
てがみの くるのを まって いました。
ふたりとも とても しあわせな きもちで
そこに すわっていました。




f:id:mei5ring:20150511235050j:plain

ながい こと まって いました。
四日 たって、しぶやんが
きみくんの いえに つきました。
そして ヒナちゃんからの てがみを
きみくんに わたしました。
てがみを もらって、きみくんは とても
よろこびました。






∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

ことの発端は教材研究の練習をしていたときのこと。がまくんのすね方、かえるくんの頑張り、かたつむりくんのスパイスが、横山さん、村上さん、渋谷さんにしか感じられなくなり、教材研究どころじゃなくなったことに始まる。
『ふたりは〜』シリーズは子どもの頃から好きだったが、今回教材として読んでいく上で、読んではいけない読み方を開発してしまった。eighterさんには授業ができても、これでは現場では活かせない。なんとも言えない結果に終わった。

超訳のポイントとして、きみくんとヒナちゃんとしぶやんという名前は、三木卓さん訳の呼び名に寄せたため、実際に村上さんが横山さんのことをきみくんと呼ぶことはないことをご了承願いたい。気づいて欲しい点としては、きみくんは必ず『おてがみ』のことを『てがみ』と言うところぐらいだろうか。



最後に……
『おてがみ』の内容を知った上で超訳を読んでいただきたいという意図で、作品を画像として載せています。当ブログでの説明のために使用させていただきました。画像の保存や転載等はなさらないでください。

ふたりはともだち (ミセスこどもの本)

ふたりはともだち (ミセスこどもの本)

「好きやで?」という言葉の重みを考える

GWも終わり、今日、私は抜け殻のような1日を過ごした。
今年の現場が着々と増えている中、何一つ記録が書き留められていないのだが、どうしても書かずにはいられない想いがあるので、ここに記しておく。



5/4-5の2日間、私は大阪城ホールで行われたSexy Zoneのコンサート、Sexy Power Tourに行ってきた。ジャニワぶりの勝利くん…♪と思っていたが、実際は3/16にあった少年収ぶりの勝利くんであった。それをありありと思い出させてくれたのが、勝利くんのソロ曲『好きだよ』であった。

この曲は、勝利くん自身の作詞曲で、ポップなメロディーに載せた等身大のラブソングになっている。パフォーマンスは少年収の時にすでに観ていたのだが、これを初めて観たとき、前奏で勝利くんがキラキラスマイルを振りまきながら「好きだよ☆」と告白してくれ、私はハートを打ち抜かれた。
この「好きだよ☆」のセリフはアルバム『Sexy Power 3』には収録されておらず、全くの勝利くんのアドリブである。勝利くんがキラキラアイドルであることを見せつけられ、圧倒され、やっぱり勝利くんは神様だと、危険な思想に至った忘れられない思い出であった。


話をコンサートに戻す。少年収で『好きだよ』を披露した時と同じ衣装で勝利くんがステージに現れた。大西流星くんの紹介をし、二人でクールなダンス*1のパフォーマンスがなされる。このクールなダンスは4日に観たときは半カウントずつズレており、どちらがあっているのかイマイチつかめなかったのだが、自担に甘い私は「かわいい~♡」の一言で結論付けてしまった。だってかわいいんだもん。

会場(主に私)の緊張感が高まる。『好きだよ』の前奏が流れる。
くるぞくるぞ…「好きだよ☆」がくるぞ……



(☆u∂)好きやで?




ぎゅーーーーーーーーーーん!!!!




不意打ちであった。勝利くんはこともあろうことか「好きだよ☆」を上回る起爆剤(主に私への)を用意していたのである。

(☆u∂)タータラッタッタッターラーイ♪
と涼しい顔で歌っている勝利くん。セリフの後に照れた顔なんてせず、手の振りと共にキラキラを振りまいている。特になんということもなく、「好きやで?」っと言った証拠であった。アドリブ力に完敗であった(自担に甘い)。



公演終了後、この勝利くんの「好きやで?」という言葉が、頭から離れられなくなっていた。



私は関西人なので、日常的に「好きやで」「好きやねん」という言葉は耳にし、また私自身も使用する。長年関ジャニ∞を追いかけていることもあり、彼らからもたくさん愛の言葉をもらっている。エイトの代表曲の一つである『好きやねん、大阪』では、亮ちゃんが最後の最後に叫んでくれ、キャーキャー言うのが私の中ではお決まりである。しかし、勝利くんから発せられた「好きやで?」は、今まで感じたことの無いような気持ちに包まれたのである。

この
(☆u∂)好きやで☆
でも
(☆u∂)好きやで!
でもなく、
(☆u∂)好きやで?
という勝利くんのチョイスに、私はハートを打ち抜かれただけでなく、砕け散ったのである。


私が砕け散った要因は、大きく2つ挙げられると考えている。1つ目は、ギャップである。
よく関東の人が関西弁を話すと、関西人はイライラする、などと言われる。これは人によるが、私は特にこの点は気にならない。むしろギャップが大好物な人間なので、標準語を頑張って話している人が、ついお国ことばを話してしまう、なんていうのに魅力を感じる。逆もしかりで、俳優さんなどが演技でお国ことばを話すようなドラマも好きである。
これに勝利くんがドンピシャであった。ラジオなどで突然関西弁を話し出すこともたまにあり、勝利くんの関西弁を初めて聞いたというわけでもなかったが、「好きだよ☆」という標準語が来ると待ち構えていたところに、関西弁の「好きやで?」が放り込まれたのは大きかった。ギャップという名の化学反応が起きた瞬間であった。この瞬間、

(☆u∂)好きやで?

ぎゅーーーーーーーーーーん!!
ギャップー!!!!
ばーくーはーつーーーー!!!!!!!!

という具合になるのではないだろうか。頭がおかしくなっているのではない。大真面目に考えた上での結論である。


2つ目が、語尾である。
「好きやで☆(キラキラ)」とすると、きゃーかわいいー(かっこいいー)♡となり、「好きやで!」とすると、きゃー頑張って言ってくれてんなあ♡となり、いわゆる『好きやねん~』の亮ちゃんから得られる気持ちと同じであったはずである。少年収の際の「好きだよ☆」もどちらかというと、好きやねん錦戸タイプであった。
しかし、「好きやで?」とすると、「僕は好きやねんけど君はどう?」のニュアンスが含まれるため、

(☆u∂)好きやで?

ぎゅーーーーーーーーーーん!!
わーたーしーもー!!!!
ばーくーはーつーーーー!!!!!!!!

という具合になるのではないだろうか。もう一度言っておく。頭がおかしくなっているのではない。大真面目に考えた上での結論である。





ご縁があり、運よく大阪の3公演全てで勝利くんの「好きやで?」が聞けたのだが、5日2部公演の最後の「好きやで?」はとうとう膝から崩れ落ちた。それと同時に、もう「好きやで?」を聞くことができないかと思うと、「好きやで?」ロスがあまりにもつらく、名古屋公演のチケットも探してしまいそうな感情であった。しかし私は、アホみたいな心理状態の中、気づいたのである。名古屋でも大阪公演と同じように「好きやで?」と言ってくれるとは限らないということを。
今、私は自らを(☆u∂)好きやで?botと称し、セルフ「好きやで?」でぎゅーーんばくはつーを繰り返している。フォロワーさんにいい迷惑なアカウントである。

まずは早急に名古屋弁で、「好きだよ」をどのように言うのかを突き止めることである。突き止めた結果によっては再びチケットを探す日々が始まる。

*1:勝利くん談

ジャニオタが4年間の(個人的な)想いをこめて謝恩会のBGMを考えた話

先日、晴れて私は学位を取得し、大学を卒業した。大学での4年間を振り返ると、思い出されるのは『講義室でテイクアウトのカレーをひっくり返して、全身カレーまみれになった』ことや、『秋も深まる季節に遠征から夜行バスで帰宅し、体育館のシャワーを浴びて凍えながら1限に臨んだ』ことなどで、なかなかぶっ飛んだ日々を送っていたように感じる。学科の雰囲気に馴染めず、高校生の頃のように多くの友人を作ることができなかったのが少し残念だったが、結果、ジャニオタを加速させ、多くのオタク友達が各地にできた。




私は所属のゼミでは謝恩会委員を担っていた。そしてそのゼミごとの謝恩会委員の中では当日会場で流すBGMを用意する係であった。この係は数名で運営していたのだが、主に私が編集作業を任されていた。
謝恩会は卒業式後にホテルの会場を貸し切って行うことが決まっていた。




卒業式前日、私は自身のパソコンのiTunesを駆使しながら頭を抱えていた。
謝恩会で流すCDが23時の時点でまだ完成していなかったからである。私は期限が決められたものは基本的に早めに終わらせておく*1ビビリな性格を持っているので、自分のペースで行えない、一つのことを複数の人と共同作業をする、あのズルズル先延ばしになるアレがどうも苦手であった。そして案の定、前日にまでその作業が及んでしまっていた。
泣く泣くスバラジを聞くことをあきらめ、作業に取り掛かろうとすると、今度はゼミLINEが動き出す。
『先生に渡す手紙が寂しいから何か飾りつけをしたいのですが…』

ああもう!!!!なんでみんな前もって準備をしないんや!!!!
こうして深夜のテンションから、私の趣味を取り入れたBGM作りが始まった。




ほぼ卒業パーティーのようなものだが、名目は謝恩会である。先生方も出席される場でジャニーズ祭をするのはさすがに公私混同も甚だしいので、所々に匂わせる形にした。タイトルに『ジャニオタが~』と冠したが、今後謝恩会のBGM係になったジャニオタさん(限られすぎ)への一つの案となればそれで満足である。自己満である。

プログラムとしては
・開会
・食事
・ビンゴ大会
・先生方へのお礼
・歓談
・閉会
というものであり、私は
・開場から開会
・開会から食事
・ビンゴ大会
・先生方へのお礼
・歓談から閉会
の曲を準備しなければならなかった。
以下、選曲をまとめていく。






・開場から開会
例年ここではジャズを流すと聞いていたのでジブリのジャズを流した。

ELECTRO SWING GHIBLI

ELECTRO SWING GHIBLI

ELECTRO SWING GHIBLI II

ELECTRO SWING GHIBLI II

ジャニーズとはあまり関係ないが、このアルバムに収録されている数曲で、過去にバトンの演技を行ったこともあり、思い入れのあるものである。
オシャレなアレンジになっているのでジブリ好きの方にはオススメのアルバム。




・開会から食事
例年ここではクラシックを流していたと聞いたが、BGM係の間で『せっかく歴史を学んだのだから日東西それぞれを感じられる曲を流したい*2』という案があり、日→箏など和楽器を用いた曲、東→女子十二楽坊、西→クラシック、をランダムに流すことになっていた。東洋の女子十二楽坊がとても安直だが、この十二楽坊が意外にいい仕事をしてくれた。
女子十二楽坊世界に一つだけの花をカバーしていたので、東洋と日本の融合ということで採用した。他に「勝利」「ジャスミン」を採用したが、これはもうタイトルの響きで選んだ。




・ビンゴ大会
ビンゴ大会では係の一人から熱烈的にインドカレー屋のBGM」を流したいと言われていたのでこちらを採用したのだが、

インドカレー屋のBGM

インドカレー屋のBGM

  • アーティスト: オムニバス,ソウミヤ・ラオー,アリシャ・チノイ,スリニバス,サスワティ,スネハ・パンディト,スデッシュ・ホスル,アヌパマ・デシュパンデ,アブヒジート,ソヌ・ニガム,スジャザ
  • 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
  • 発売日: 2005/07/21
  • メディア: CD
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ビンゴ大会の予定時間よりも収録時間が少なかったため、ルール説明のときに流す用としてジャニーズの曲を準備することにした。盛り上がって、楽しくて、宴会にふさわしい曲……私の中ではあの曲しかなかった。



棚からぼたもち/舞祭組




これが予想以上に盛り上がった。すでにお酒が入っていたとはいえ、数人は『B!U!』と振り付きで踊り、歌っていた。サビのガヤキタタマのシンクロ率は、ここはキスマイコンの会場かと錯覚するかのようなもので、異様な風景であった。さすが舞祭組…感謝感激であった。ビンゴ大会の1曲目に棚ぼたを流すと盛り上がることを保証するので、これから送別会などでビンゴ大会をする方はぜひ。




・先生方へのお礼
ここでは『ゼミ生が選ぶ先生っぽい曲』として事前に各ゼミで選んでもらった曲を各先生ごとに流した。ゼミごとにカラーが出ておもしろかったのでオススメ。





・歓談から閉会
ここで流す曲は、深夜のテンションで作りすぎたかなと、反省かつ流すことに少し不安を抱えていたが、誰も聞いていなかったので結果オーライである*3
流した曲は以下の通り。

別れの曲/ショパン
Liar/ジャニーズ(プレゾン)
歌劇「カルメン」よりハバネラ/→Pia-no-jaC←
情熱大陸/葉加瀬太郎
サムソンとデリラ/サン・サーンス
卒業~さよならは明日のために~/タッキー&翼
Congratulations/Sexy Zone

「別れの曲」からの「Liar」のワクワク感、アンコールが始まる感じ。たまらなかった← そしてしっとりと聞かせる「卒業~」。さよならは未来のためにあるんだと会場の卒業生の背中を押す。そして新たな門出を祝う「Congratulations」。勝利くんの優しい歌声が心に沁み渡っていく……と思っていたのは私だけだが、めいめいに友人や恩師と歓談し、名残を惜しむ姿を見て、謝恩会の成功を感じた。
「Liar」から「卒業~」までの3曲は私が在学中に出場したバトンのチームの大会使用曲であるため、ここで流した曲は全くの私の勝手な選曲ではあったが、雰囲気などは作れたと感じている。いや、そもそもBGMなんてあまり誰も聞いていないし、最後のあたりはほぼ誰も聞いていないので、正直何を流してもよかったのではと思う。
ただ、このBGMの作業は、セトリを考えているようでなんだかんだ楽しんでいる私がいた。卒業式に徹夜で挑むという、意味が分からないコンディションで参加した私であったが、棚ぼたで盛り上がれたそれだけで満足であった。





謝恩会が終わった。
二次会に行く人もいれば、遠方から来ている家族のもとへ向かう人もいた。私はというと、


勝利くんに向けて『卒業おめでとう』のうちわを作りたい!!!!


と、いそいそと帰宅した。ジャニオタからの卒業はまだまだ先だ。

*1:コンサートや舞台の振り込み期限は最大限に活用するが。

*2:私は歴史を学んでいた。

*3:そもそもBGMとはそういうものだ。

担降りをした話

今年の目標はオタ卒。
それが叶うか叶わないかはわからない、おそらく来年も目標に掲げているであろう。

たとえどう転んだとしても、昨年、私はジャニオタとして忘れられない経験をした。ここにその時の経緯と今の気持ちを残しておこうと思う。



前回の記事にて、昨年私は担降りをしたという話題を出した。

私は関ジャニ∞横山裕さんを長らく応援してきた。彼の愛らしい左のもみあげを語らせて右に出るものはいないと自負できるほど、私は彼の左のもみあげ担であった。
横山さん以外に気になる人は他にもいる。私のジャニーズへのきっかけとなったタッキーは、殿堂入りという立ち位置でその頂点に君臨しているが、他にも内くんや光一くんといった、キラキラ王道アイドルも気になる存在としてまなざしを向けていた。
そこに新たな刺客として2013年あたりからじわじわと迫って来ていたのがSexy Zone中島健人くんであった。
私が愛してやまない『キラキラ王子様』の王道を行く彼の姿は、私を惹きつけ離さなかった。



2014年春。
私は3月末に将来にかかわる問題を抱えており、不安定な精神の中、新年度をスタートさせていた。
友人に誘われてなんとなく始めた、エイト以外のアイドルを愛でる鍵アカのアイコンには、横山さん、タッキー、内くん、健人くんを4つの枠からのぞかせ、健人くんのキラキラ具合にときめき、5月に控えたKQJ鑑賞会のために友人3人で『ふまけんけん』というグループを結成し、ただ必死に新年度と戦っていた。
そんな中、私は購入したい欲を抑え(買ったら最後、その先が沼であることは分かっていた)、やっとセクゾのアルバム『Sexy Second』をレンタルすることができた。一曲ずつ聞いていき、それが終わったらランダムで聞きはじめ……アルバムを何周かした時であった。

ブスって言ったら殺すから

え?私は耳を疑った。もう一度聞いてみる。しかし聞き間違えなどしていなかった。
なんてことを…。若さあふれるフレッシュさが売りであるはずのSexy Zoneになんて歌詞の曲を歌わせるんだ!この歌は一体なんだ!?!?

私のオキテ/チキンバスケッツ

これが始まりであった。



アーティスト名を見て疑問を持つ。チキンバスケッツ、はて…。急いでグーグル先生にうかがうところによると、セクゾの佐藤勝利くんが主演したドラマ内のユニットであるとのこと。勝利くんを筆頭に羅列されるメンバーの名前もイマイチピンとこない。そんな中、私は検索のヒットにとんでもないものを見つけたのである。


彼らは女装をしていた。少女時代を彷彿させるような白を基調としたコスチュームとニーハイにブーツ。私は胸の高鳴りを感じずにはいられなかった。すぐに動画サイトでドラマ内の曲披露のシーンを再生した。
かわいい…かわいすぎる…かわいい……かわいい!!!!

ダニーちゃんかわいいいいいいいい!!!!!!!!

気が付けばセンターを張る金髪ボブのダニーちゃんに心を奪われていた。
端正な顔立ちに女子にしか見えない愛らしい笑顔。ブスなんて言えない、言えるわけがない、まさに美少女だった。
鍵アカはチキバbotとなり、来る日も来る日もダニーちゃん…♡とため息をついた。友人とのグループ名はとうとう『ふまけんけんしょり(略称『FKKS』)』に変更された。



セクゾの新曲が発売された。
『King & Queen & Joker』のPVを観るための第1回ふまけんけんしょり会が開催された。勝利くんはクイーン役として軽めの女装をしていた。かわいらしい。私はてっきりダニーちゃんに恋をしたのだと思っていたが、そうではなかったようだ。すっかり勝利くんの虜となっていた。チキバのオフショットを目当てに、私は『有閑倶楽部』以来のDVD BOX購入に踏み切る決意をした。自分の誕生日プレゼントとして。



5月。
それは私の誕生日以外に、自担である横山さんの誕生日でもあった。某所で行われた横山さんの生誕祭にも参加したが、心はなんとなく上の空であった。それでもまだそのときは横山さんは私の自担であった。
私の誕生日は横山さんよりもあとにやってくる。ハタチを過ぎてから特に何も感じなくなった、それでもおめでとうと言われるとやはりうれしいその日を、悲しくも彼氏に忘れられる(というと語弊があるかもしれないが、ないがしろにされる)という事件が起きた。それも2年連続。

ここで登場する突然の彼氏になんでやねんとツッコまれるかもしれないが、横山さんと彼氏は私の中で一心同体であった。
大好きな横山さんに似た面影と性格を持つ彼氏(当時生徒会の先輩)に惹かれた高校時代を経て、晴れて数年前よりお付き合いを始めた。最初は横山さんに似ているからというとんでもない感情から始まった恋であったが、歳を重ねるごとに彼氏には彼氏の良さを感じていた。
彼とは中キョリ恋愛であったことも相まって、私は彼氏と会えない時間をテレビやラジオの横山さんで埋める日々を過ごしてきた。横山さんが急にレコメン!から卒業したその翌日も、たまたま彼と約束をしており、横山さんへつのる寂しさを彼氏で埋めた。なんというしたたかな女であろうか。横山さんと彼氏は私の中の『好き』の感情を満たしてくれる存在であった。依存していた。


しかしそう感じていたのはどうやら私だけだったようだ。
横山さんは私のことなんて知らないし、私が横山さんの感情を満たすときは一eighterとしてであった。残念ながら、私の中で渦巻く、私生活での不安、辛さ、悔しさをそばで癒してくれたのは、横山さんでも彼氏でもなかった。いっぱいいっぱいになっていた私は、数年来積もり積もった彼氏への不満を一方的に爆発させ、勝手に年上への絶望と憤りを感じていた。子どもの頃から憧れた、年上のお兄ちゃんへの理想はあっという間に崩れ去り、その崩れ落ちた壁の先に見えたのは、優しい微笑みを向ける、年下の勝利くんであった。


あの時彼氏に対する不満が湧かなければ、担降りすることなんてなかったのではないかと、今私は考える。横山さんはとんだとばっちりを受けたのである。横山さんに似た彼氏に私が絶望したことによって。
2人は『好き』の対象であった。『好き』の感情を満たしたいときにうまい具合に調整していた二者のうちの片割れが、その対象でなくなったとき、片方に振りきれることは残念ながらなかった。私は2人に依存しきっていた。




この一件以降、私の勝利くんへの熱は上昇の一途を辿った。来る日も来る日もしょりたん……♡とため息をつき、友人とのグループ名はとうとう『ふまけんしょり(略称『FKS』)』に変更された。*1

横山さんをタッキーのように殿堂入りへと格上げする考えは、残念ながらその時は持ち合わせなかった。勝利くんがどんどん上がってくる中で、横山さんを追い抜いてしまったのである。むしろ横山さんへの熱が冷めてしまっていた。大好きだった彼氏に似た面影と性格を持つ横山さん(アイドル)を観るのがつらい日々が続いた。


彼氏とは仲直りをしてから笑って別れたかった。別れの場として私が選んだのは、関ジャニ∞がメンバー内で大喧嘩をしたときに、話し合いの場を設けて仲直りをした、堀江のカフェであった。電話やLINEでよりも直接会って自分の気持ちを伝えたかったためである。絶好の場所であった。
その日も店内にはeighterさんらしき人がいたように思う。私の伝えたかったことを伝え、彼の話を聞き、お互いに謝り仲直りができた。返すためにはずしていた彼からもらったプレゼントの指輪は、もう一度元の指にはめ返された。彼氏と仲直りをして終わった。別れ(られ)なかった。





私は6月に入ったオーソレの番協以降は、翌春からの自分の身分が決まるまで、現場を控えることにしていた。そのため、すでに開催が決定していた十祭には行かないことを決めていた。ちょうどそのころは横山さんを観るのがつらい時期であったので、決断はそこまで苦ではなかった。しかしそう決めた矢先に勝利くんのソロコン、そして奇しくも番協の日にセクゾの夏コンの開催が決まった(6/9。この日は両親の結婚記念日であり、番協日であり、少年収の日であり、彼氏に爆発した日でもあった。いろんな意味で忘れられない)。勝利くんのソロコンは考えすぎて嫌になるほど入りたいと考えたが、自身が東京遠征をしている状況ではなく、泣く泣く断念した。しかし、夏コンは聡マリは不在であったが神戸でも開催されることになっていた。関西在住の私が十分足を運べる場所であった。悩んだ。大学受験の年は一年間我慢をした。我慢ができた。ここで行ってしまうと私のポリシーに反する。FKSが誘ってくれてる。一日ぐらいいいか!出すだけ出して、外れたらそのときは我慢しよう!!

結果、Kちゃんがチケットを当ててくれ、十年ジャニオタをしていて初のアリーナに入りました。


私は十年来うちわを持たない主義でやってきたが、このとき人生初めてファンサうちわを作った。
『勝利』うちわと『ハート作って』・『You are my prince』うちわを。
普段私は勝利くんのことをしょりたん、もしくは神様と呼んでいるため、『You are my god』うちわを作りたいところであったが、そこは自粛した。どちらにしろ自己満であるが、私はジャニオタ十年目にして初めてうちわを作る楽しさ、うちわを持つ楽しさを知った。そしてファンサをもらう感動を知った。

神戸に行き、初めてこの目で神様を拝めたことは、私にとってプラスのベクトルとなった。夢のような神戸での一日を過ごし、私は現実へと切り替えた。2週間後、1か月後にあった戦いになんとか勝つことができた。勝利した。勝利くんは勝利の神様であった。



そんなこともあり、彼氏と仲直りしたものの、勝利くんへの熱は相変わらずで、エイトへの関心は薄れたままであった。このままひっそり、Twitterのエイトのアカウントから消えようかと考えたこともあったが、どうしてもそれができないでいた。勝利くんが好きになりました、さようなら。なんてことはできなかった。仲のいいフォロワーさんに担降りをしたことを告白することができなかったのだ。特に、毎日LINEをしていたすばる担の相方にはどうしても言えなかった。ラジオレポがおろそかになっても、誘ってくれた十祭に一緒に行けなくても、私の将来のために今は頑張りどきだ、頑張れと応援をしてくれた。十祭をあきらめた私のために、(大阪の)十祭3日目と称して息抜きに付き合ってくれた。そんなオタクごと以外にも気にかけてくれる優しい相方に、本当の気持ちを伝えられずにいた。春からの身分が決まり、忙しさから少し解放された時、沸き上ってきたのは相方への申し訳なさと自分のふがいなさであった。担降りとはこんなにつらいものなのか、担降りするまでも悩み、決意してほっとしたはずなのに、いつまでこの感情を持たなければならないのか。相方に伝えられない理由は、ただ相方に悲しい思いをさせたくないというその一心であった。担降りという言葉を使わずとも、セクゾにハマっていることを伝えて相方を悲しませるようなことがあってはならない。いろいろと考えた結果として、11月にあったセクゾのイベントは別件で東京に行くという嘘をついてしまった。この嘘は正しい嘘だったのだろうか。考えることを放棄したくてもそれができなかった。

もう何が正しいのかわからなくなっていた。いっそのこと勝利くんに『理解できない。横山くんのとこに行けば?』と某雑誌のように言われればすっきりしたのかもしれないが、残念ながら情報処理能力がキャパオーバーとなっていたわたしが取った行動は、底なしにジャニーズにのめりこむことであった。セクゾを知ることで私は周辺Jr.を知った。萩谷担のFちゃん、小瀧担のKちゃんとの集まりは、もっぱら3人の需要が一致する少クラを観る会となり、私自身少クラは毎週録画で観た。ガムシャラも観るようになった。ピラミッドの頂に勝利くんを置き、少クラの顕嵐くんや北斗くんに黄色い声を上げ、10月に行われた滝CHANnel運動会番協ではトラジャの魅力を知った。Jr.だけに収まりきらなかった。少プレを観てジャンプの有岡くんにハマったときは、あまりの可愛さに悶絶して美容院で髪型を同じにしてもらった。もうめちゃくちゃである。でも楽しかった。




そんな節、彼氏から将来一緒になろうと考えているということを告げられた。仲直りから3か月ほど経った頃であった。高校時代の私の片想い、猛アタック、3か月前の大爆発。騒ぎ出すのはほぼ私であるのだが、珍しく彼からのアクションであった。珍しいそのアクションが想像以上のもので、その衝撃はすさまじいものであった。
このブログの開設もかなりの影響を受けているのだが、勝利くんへの担降りの一つのポイントとなったのが、あややさんの書くブログとTwitterの内容であった。そのあややさんがたまにブログテーマに挙げられている『婚活』について、彼への爆発後、意識しなければならないと考えていた。別れを決意していた時も、仲直りをした後も、彼と結婚することはまずないと思っていた。好きだ嫌いだといった感情的なものではなく、そもそも彼が結婚を考えるような人ではなかったからである。しかし、どうやら私の意に反して、彼はそうしたことを考えてくれていた。20代前半にして婚活をする前にいきなり婚活が始まりそして終わった。


子どもの名前を『樹』で『じゅり』にしたいという話を華麗に却下されたものの、私は浮かれていた。私が爆発して以後、なんとなく立場が逆転していた中、彼からそのような言葉が聞けたのは意外であったが、素直にうれしかったからである。その日は理想の結婚式、生活、子どもの人数などを思いつくまま話題に出し、彼との幸せな家庭について思いを馳せた。
しかし、その浮かれポンチな思考は半日で終わる。翌朝、私は結婚に必要な資金を調べて絶句していた。グーグル先生はチキンバスケッツの事でも結婚資金の事でも何でも教えてくれる。
それなりの結婚式に新婚旅行、初期費用…etc…。すべて合わせて最低300万は必要であるとのことであった*2。2人で300万。1人あたり150万。まだ数年は学生の予定で、現在絶賛底なしのジャニオタである私には気が遠くなるような金額であった。通帳の残高を思い出して絶望をしていた。春からは学費も払わねばならない予定であった。早くもマリッジブルーに陥っていた。ジャニオタをやめなければ結婚は一生できないことが分かった。勝利くんが法的に結婚できる年齢になって数日たった日の事だった。


いっそお茶の間になれればと思ったが、そんなことなどできるわけがない。ならば、すっぱりセクゾ一筋になり、エイトやタキツバをあきらめる必要があった。エイトは十周年まっただ中、関ジャニズムツアーが終わった暁には…。

ちょうどいい節目であった。







12月。
忙しい時期を乗り越え、私はエイトの10周年を感じるために名古屋の地に降り立った。相方と合流し、仲のいいフォロワーさんと昼食を食べ、友人と久しぶりの再会を楽しんだ。いつでも会えるFKSと、名古屋でもとりあえず写真を撮った。そして迎えるJUKE BOXぶりの関ジャニ∞

楽しめないかもしれないと思っていた。一度は完璧に冷めてしまった熱であった。横山さんに心からの声援が送れるのか不安であった。
しかしそんな不安は一瞬で拭い去られた。
横山さんは最高で最強であり、ずっと応援してきた関ジャニ∞は最高で最強の関ジャニ∞であった。先にも述べたが、もとより横山さんと彼氏が一心同体であった私が、彼氏への気持ちが高まっている今、横山さんを愛でられないはずがなかった。一生懸命踊り、歌い、奏で、喋る横山さんは、本当に尊い存在で輝いていた。横山担に出戻った瞬間であった。
興奮冷めやらぬ中、一緒に公演に入った3人で、関パミニを何度も何度も観て笑い転げ、2014年最後のスバラジを聞き、また関パミニを観た。翌日もまた関パミニを観てから公演に入った。名古屋の思い出トップ3に入るのがもはや関パミニなのだが、とにかく私は開演するその瞬間まで感じていた悩みをその一瞬で解決していたのである。「とりあえず考えるべきことは置いておいて、ひとまず楽しもう」としていた、関ジャニズムを私は全力で楽しんで完走したのであった。





翌年の京セラもツアーファイナルまで入り、いい節目だと考えていたその日がやってきた。ふとTwitterのTLを見ると、私が長らく横山担の鏡であると尊敬の念を込めていた米太郎さんがオタ卒を宣言されていた。本来なら私もこのタイミングで担降りを宣言する予定であった。そのためにスマホのメモ帳には長々と感謝の言葉をしたためていた。だが、私はやはりエイトを離れることができなかった。






2014年4月から2015年1月までの9か月、私は様々な現場に足を運んだ。それまでエイトとタキツバだけでしかなかった私の世界はとても狭く、井の中の蛙状態であった。現場が変われば、観る対象も変わり、ファン層も変わる、ルールも変わる。それに新鮮味を感じることもあったが、やはり慣れ親しんだエイトと比べている自分がいた。特にこの一年で感じたものは派閥問題、そしてセクゾ形態問題であった。
ジュリー班と飯島班、どのグループがどちらについているのかさえ興味がなかった私であったが、広くジャニーズを観る機会を得た昨年は、その派閥問題をありありと感じることができた。そして、そもそもそのような状態にあるなんて知らなかったセクゾの問題が、セクゾ新規の私には理解し難かった。最初は、初期のエイトでいうトークのヨコヒナを筆頭に内くん亮ちゃん渋谷さんがセンターを張る中で、関ジミと呼ばれた丸山安田大倉くんにライトが当たらない時期があったことを思い出し、5年もすれば聡くんマリウスくんにも機会が回ってくるよと悠長に考えていた。しかしその差の付け方は異常であり、Sexy Zoneというグループの活動が、マイナスへのベクトルにしか感じられなかった。特に、その状況に憤りを感じる風磨くんが、何かアクションを起こしたいのにそれも叶わず、そうした自分に憤っているというように感じられる場面に出くわし、若くフレッシュさあふれるはずのグループへの負の感情をも持った。
そんなグループのセンターを任される、シンメを持たない絶対的エースの勝利くんに、私はエイトに見られない何かを感じた。そしてグループの問題も相まって応援したくなったのである。

輝きを放ちながらもどことなく儚く、生と死、静と動を感じさせる、弱冠十八歳には見えない―むしろ十八歳という少年であるからこそなのかもしれない―そのたたずまいに、私は虜にされたのであった。
私は関ジャニ∞横山裕さんからSexy Zone佐藤勝利くんに担降りをした。勝利くんに『僕らは前に進まなきゃ』と言われ、私はエイトへの未練を断ち切った。『素直になりなよ』という言葉に従い、私は勝利くんのもとへ進む道を変更した。とても清々しかった。



しかし、私はエイトにまた引き込まれたのである。そしてグループを引っ張る最年長の横山さんに惹かれたのである。約半年という早すぎる出戻りであった。出戻ってきたものの勝利くんを好きな気持ちが無くなった訳ではない。減ってしまったわけでもない。抱く感情が異なる2人を天秤にはかけたくないが、担当は誰ですかと聞かれたら、悩んだ末に『Sexy Zone佐藤勝利くんです』と答えるであろう。勝利くんと横山さんのその差はあまり変わらない。横山さんへの気持ちは冷めていく前と変わらない気持ちを持っているが、そこをほんの少し勝利くんが越えた状況で落ち着いている。




三内丸山遺跡、目安箱、錦絵…etc…
中高時代、エイトのメンバーに関する単語が出てくるたびにわーきゃー言い続けた日本史を、私は大学の4年間学んでいた。史実は一視点のみから見ることは危険なことであり、様々な観点からのアプローチが必要であるということを知り得た。青春時代にエイトに染まることがなければ、その分野に進むことも、知ることもなかったことである。少し言いがかりにはなるが、私はエイトに染められ、教えられたように、エイトの歴史を広い視野から見ていくことに…つまりは掛け持ちで応援しようと決めた。

『掛け持ち』は賛否が分かれ、好まない人も多いことを私は理解している。私のエイトのアカウントのフォロワーさんにも、嫌う人がいることを知っている。しかし、掛け持ちだからこその知識や視点で知りうることもあるはずであり、私はそういった発見を得たいと考えた。一途でないことを疎まれるかもしれないが、私はこのスタンスを取ることに決めた。




勝利くんと出会った2014年は、私のジャニオタ人生に大きな変化があった一年であった。様々な貯金を始め、絶好のオタ卒のタイミングであるにも関わらず、また、このブログの冒頭でオタ卒を掲げているにも関わらず、まさかの泥沼を進む気でしかない2015年。『どうして愛はお金がかかるんだろう?』…まさにこれである。
ジャニオタである前に一学生である、自身の分をわきまえ、現実の恋にもアイドルへの想いにもお金が必要なこの世の中を、今年もまた駆け抜けていこうと思う。

*1:私が担降りを報告したふまけんしょり会の後、ふま推し(以下Fちゃん)も横山さんから萩谷慧悟くんへ、少し経ってけん担当(以下Kちゃん)も底なしDDから小瀧望くんへと降りた。現在もFKSは仲良く定期的に集まるが、グループ名の由来となるセクゾを担当とする者は気づけば私だけである。

*2:私調べ

2014年現場総括

2015年が始まって早半月が過ぎようとしている。
『マッチと徹子のドーム』というジャニオタにとって衝撃的な幕開けとなった2015年は、オタ卒の目標かつ、思い出を残すためにブログを執筆しようと思い立った。
手はじめに2014年の現場総括とするが、本稿を執筆している1月17日現在、すでに5現場に入っているのだから、自身のオタ卒がほど遠いことを物語っている。
はてなブログの使い方をまだイマイチつかめていないが、以後簡単に現場記録とする。




2014年 現場(コンサート・ライブ・舞台・番協・イベント等)


1/17(FRI)-19(SUN) LIVE TOUR JUKE BOX in 京セラドーム(関ジャニ∞)*1

4/27(SUN) デビュー記念握手会@インテックス大阪(ジャニーズWEST)

5/4(SUN)・6(TUE) ミュージカル『ザ・オダサク』愛と青春のデカダンス@京都南座(内博貴他)

5/4(SUN)・5(MON) ジャニーズ・フィルム・フェスタ 2013@大阪城ホール(再演、Hey!Say!JUMP他)

5/10(SAT) バーン・ザ・フロア Dance with You@フェスティバルホール(今井翼)

6/9(MON) モモコのOH!ソレ!み~よ!@関西テレビ(7/19OA分番協、重岡大毅)

7/23(WED) デビューしてもええじゃないか~バンザイ!!その先の一等賞へ~@Zeppなんば(ジャニーズWEST)

8/5(TUE) Sexy Zone summer concert 2014@神戸ワールド記念ホール(昼・夜の両部、中島健人菊池風磨佐藤勝利他)

9/27(SAT) Endless SHOCK@梅田芸術劇場(堂本光一他)

10/4(SAT) 滝CHANnel 公開収録@デジタルハリウッド大学八王子制作スタジオ(運動会収録、滝沢秀明他)

10/5(SUN) GOEMON 石川五右衛門大阪松竹座(夜の部、今井翼)

11/26(SUN) オーシャンズ11梅田芸術劇場(香取慎吾他)

11/16(SUN) Sexy Zoneデビュー3周年記念イベント@お台場パレットタウン内イベントスペース「パレットプラザ」(Sexy Zone他)

11/21(FRI) ジュリエット通り@コスモスシアター(安田章大)

12/22(MON) 関西ジャニーズJr.『X'mas Show 2014』@大阪松竹座(浜中文一他)

12/27(SAT)-28(SUN) 『関ジャニズム LIVE TOUR 2014>>2015』 in ナゴヤドーム(関ジャニ∞)


計16か所22公演




ちなみに2013年も比較として列挙しておく。

2013年 現場


2/17(SUN) If or...Ⅴ@サンケイホールブリーゼ(夜の部、村上信五)

5/11(SAT)・18(SAT) 『ザ・オダサク』@大阪松竹座(内博貴)

7/13(SAT) 映画『忍たま乱太郎 夏休み宿題大作戦!の段』舞台挨拶@T・ジョイ京都(内博貴)

8/15(THU) ジャニーズ・フィルム・フェスタ 2013@東京ドームシティーホール(夜の部、Hey!Say!JUMP他)

9/4(WED) TAKOYAKI in my Heart PV撮影@キューズモール(番協、関ジャニ∞)

11/10(SUN) LIVE TOUR JUKE BOX in 東京ドーム(関ジャニ∞)

12/15(SUN) SNOW DOMEの約束 in 京セラドーム(Kis-My-Ft2)*2

12/21(SAT) LIVE TOUR JUKE BOX in ナゴヤドーム(関ジャニ∞)

計8か所9公演



これらを羅列して、『どう?2014年はたくさん現場に行けたの。私ってすごくない?』と誇る気は毛頭ない。
この2年の出向いた現場から察してほしいのだ。



2014年はジャニオタ人生初の担降りを経験した。
これについてはおいおい機会を見つけてしたためようと思うが、2014年の6月ごろにはすでに心変わりは責められない*3状態になっていた。
私生活での様々な問題や置かれた環境がそうしたのだと今の私は冷静に分析しているが、当時の私はただただ新しい自担に思いをはせ、大好きだった元担を見るのも嫌な日々が続いた。



新しく飛び込んだ世界は10年身を寄せてきた世界とは全くの別世界であった。
場所が変わればルールも違う、顔ぶれも違う。
新参者の私は無我夢中で『好き』を増やしながら『大好き』を追い続けた。

その結果が現れた2014年の現場であったように感じる。



うん、やはりここでは多く語らず、プレゾン初日を書く前に担降りの件についてまとめることにする。
2016年がやってきたとき、私がこのブログで2015年現場総括を書いて、そこでオタ活が終わるように、そう願って、書いていく。
(1年間)よろしくお願いします。

*1:17日には初のビスタを経験。ビスタ席においては銀テは降ってくるものではなく胸に直撃するものなのだという発見をした。

*2:急遽玉森担のいとこと参戦

*3:byヤマピー